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[2011年以降]・・下記「ヒロシママッピング」を是非ご覧下さい。


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2011長崎ピースフォーラム

きん吾少年の被爆体験の再現   福田裕子 (河内)
 長崎に66年前原子爆弾が投下され、七万四千人余りの命が奪われました。当時を語り継ぐ人達も、だんだん少なくなっています。だが、その時の悲惨な様子を、「風化に抗して」という寸劇を通して、戦争を知らない人達が生々しく演じてくれました。主役は当時14歳だった「きん吾少年(59歳で死亡)」の被爆実体験により構成されており、全員で熱唱した平和の歌とともに、その心は次世代に語り継がれていく事でしょう。被爆者慰霊と原爆・原発、あらゆる核兵器廃絶を願って参加させていただき、私も平和のありがたさ、戦争の悲惨さを次世代に語り継いでいく事の大切さを実感しました。
感動する寸劇「風化に抗して」  源勝子(泉州)
午後からの参加で、被爆体験談が聞かれなくて残念でした。構成詩の「風化に抗して」の劇中に胸が痛み涙する場面があり、沖縄、広島とはまた違うものを感じました。長崎県防空本部跡の「立山防空壕」、東洋丸など海底線作業中に戦争で亡くなられた「海魂之碑」に新たな気持ちで献花をしました。長崎原爆資料館では、原爆投下直後を再現した数々の被爆物に驚愕、被爆紙芝居も見る事ができました。平和を祈りつつ短い二日間でしたが、是非皆さんも参加しましょう。
広島・長崎の犠牲者の分まで  武田泰子(河内)
原爆により、何もわからない児童たち、また、学校へ行っていた若い学生さん達が、勉強のかわりに工場へかりだされ、国のために一生懸命に働いた人たちが、爆風に吹き飛ばされ、原爆の熱線に焼かれて即死したり、放射能によって大切な命が奪われてしまった。このような悲惨なことは決して忘れさることができない。今は平和で、欲しいものは何でもすぐ手に入る。これも一重に広島、長崎の人達の犠牲の上になりたっているのではないのかな。少しオーバーかも知れませんがそのような気がします。忘れてはいけない戦争、それにより原爆が使われる、もっともっと人の命を大切にしたい。広島や長崎の人達の分まで平和であってほしいと感じました。
  
生きていく事が戦争反対への意思表示   藤直 数隆(北摂) 
今年もまた、沖縄ピース・ステージを始めとする平和四行動の季節がやって来た。現役時代は何度と無く沖縄、広島の平和行動へは参加して来たが今回の長崎の地は始めてであり、未知への光景に胸をドキドキさせながら長崎駅に降り立った。タクシーでフォーラム会場へ向かう途中、クネクネ坂を登りながら車窓から見る長崎の街は、まるで箱庭のように美しく輝いていた。やがて会場に着き、鷲谷会長の案内でフォーラムホールへ入り、そこで支部協および大阪各ブロックの千羽鶴が飾られて有り、感動した。午後の部の構成詩「風化に抗して」は原爆投下時の状況を題材にした舞台劇で、戦争を知らない二世~四世の人たちで演じられ、その朗読とパフォーマンスに胸が締め付けられる思いで涙が溢れ出て来るのを止めようも無かった。フォーラム終了後、立山防空壕、城山小学校と見学し、特に城山国民学校は被爆建造物(コンクリート製)として被爆当時のまま保存されており、原爆の凄まじさと戦争の爪痕が生々しく残っていて飾られた写真から阿鼻叫喚のうめき声が聞こえそうで鳥肌の立つ思いをした。毎回、平和行動に参加した当座は戦争の悲惨さを平和の願いを込めて後輩諸氏・未来を背負う子供達に伝えようと使命感に燃えているが時間の経過と共に、その気持ちも薄れていく自分自身を自虐的に見つめていた。今回は終戦直前生まれの一人として、戦争の記憶は無いが、戦争の悲惨さと平和への願いを生きていく限り、語り継いで行きたいと思っている。
大阪に原爆が落とされておれば  村上早苗(なにわ)
戦後66年が経って初めての長崎平和フォーラムに参加させていただきました。この小さな国に2つの核兵器を落とされた事に深い悲しみと怒りで胸が一杯になりました。一つ間違っておれば大阪に落とされていたかもしれなかったのです。それを考えると複雑な気持ちでした。平和フォーラムは9.30分からでしたが私達は13時に現地入りしました。被爆体験談の方のお名前に池田早苗と書いてあり、同名の方がいらっしゃるのだと親しみを持ちましたが、この方は男性だと教えて頂き(もしかして私も男)驚きました。その方のお話を聞けなかったのは残念でした。終了後バスで、立山防空壕、城山小学校へ遺構めぐりをし学習をしました。2日目は原爆資料館見学と原爆死没者慰霊式に参列し献花をし終了です。いかなる理由があろうとも、核兵器の使用はあってはならないのです。66年で広島・長崎はここまで頑張ってきました。これからは皆が楽しい人生がずぅーと続きます事を願っております。
被爆後66回目の夏を迎えました、今年の平和行動は東日本大震災で福島第1原発の事故を受け放射能の恐ろしさと混乱を招いていることから「核廃絶」の意識が例年以上に高まった平和行動となりました。安全神話が否定され脱原発への議論が活発に行われることとなるでしょう。
私は4年振りに長崎の平和行動に参加しました、今回は退職者を代表して中央協の羽山会長と共にNTTの慰霊碑に献花致しました。
長崎の平和行動の特徴の一つは、毎年県下の高校生が中心となり「核兵器の廃絶と恒久平和を願う被爆者の願い」の署名活動を行い、「高校生平和大使」を12名で結成し署名を携え国連を訪問しております、今年は東日本大震災被災地からも代表が選ばれて14回目の派遣となります。今までに提出した署名は60万人にのぼるそうです。
二つ目は情報労連が演出する構成詩が平和長崎大会で発表されていることです
情報労連が風化に抗してと題して構成詩を演出してきて今年で12回を数えます、親と子供たちが共演し原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさ、と平和への願い、を詩の朗読と挿入歌を交えて演じ共感と感動を多くの人に与えていますことに敬意を表します 構成詩の最後は参加者も一緒に手話を交えて歌う歌を私も一緒に唄いまして大変感動しましたので紹介します。
歌「For The Peace Of World」
「ながさきは わすれない あの日のひさんなできごとを  みずがほしい たすけてと
さけびながら 死んで行ったーひとびとを  あなたの あいをください あなたのゆうきください Please Work へいわのために Please Work For the Peace Of Work」


# by ntttaikiji2 | 2011-09-13 14:37

2011広島ピースフォーラム

伝えること・どう伝えるか・・・廣道襄(支部協)
 戦後66年、人間の一生分である。当然、被爆・戦争の実態を直接伝える証言者は少なくなってきた。「戦争の風化」、「平和ボケ」、「安全神話」と言われる昨今、「伝えること」も風化しつつある。沖縄も廣島も長崎も過去の歴史上のものにしてはいけない。NHKテレビで「NHK戦争証言アーカイブ」や、広島・長崎でも「ヒロシマ証言アーカイブ」というネット上に記録したものを何時でも、立体的に見聞き出来るようになってきた。大阪支部協・平和行動参加者全員が、一人でも多くの人々に伝えようとする努力は大変貴重なものであろう。これからも自分の寿命と競争で、多くの「祈り鶴運動」を底辺とし、被爆者から受け継いだ平和への心を、戦争写真展・会報・集会・家族、孫など若い世代に語り継いていきたいものである。沖縄に続いて、広島・長崎参加者全員から、愛する孫たちのためにも「伝える」こととした内容を見てほしい。。
参考
http://hiroshima.mapping.jp/ge.html/ ヒロシマ証言アーカイブ
http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/ NHK戦争証言アーカイブ
平和の尊さを」語り継ごう 中川 好香(河内)
 8月5日夕刻より、NTT基町ビルで執り行われた原爆犠牲者慰霊式典に参列し、当時「さまよいながら」、水を求め続けて亡くなられた御霊に献水し、心からなる拝礼をいたしました。情報労連「広島ピースフォーラム2011」に集結した私達一人ひとりが学び感じた「広島」の実相、「平和の尊さ」を社会・職場・家庭で話し合い、それぞれの行動の中から継承し、未来へ語り継ぐことの大切さを実感しました。
語り継ぐことの重要さ  楠優子(なにわ)
 久しぶりに訪れた「原爆資料館」では、改めて悲惨な情景を目の当りにして平和の尊さを語り継ぐ事の重要さを感じた。メモする子供達の姿を見て戦争を知らない世代が増えている中で資料館で得た情報を他の子供達へ伝えられたらと願う。今年の広島は原爆投下から66年、今年3月の震災、原発事故による放射能問題、戦災と震災の問題が深く考えさせられる。“過ちは繰り返しませんから“の句碑がもの悲しい。最後に広島支部協松木会長をはじめ皆様の細やかで温かいおもてなしに感謝!そして会長自ら被爆体験者の語り部として、ご活躍とのこと。更なるご健闘を祈ります。
永かった被爆・これからの被曝   中本邦一(泉州)
 広島県支部協・松木忠生会長さんをはじめ、広島の皆さんには大変お世話になりました。広島を襲ったピカドン一発で、一瞬にして14万人の命が奪われました。あれから66年の歳月が過ぎ去った今もなお、その後遺症に苦しんでいるのです。情報労連主催の広島ピースフォーラム・アピールでは、私たち一人ひとりが、学び、感じた「ヒロシマ」の実相、「平和の尊さ」を、社会・職場・そして家庭で話し合い、平和活動の継承と、未来へ語り継ぐことが、採択されました。66年苦しんできた原爆後遺症、今また、福島原発の放射能の恐怖が、今を出発点として、永き将来に向けて苦しみと闘いがまさに始まろうとしているのです。
祈り鶴に想う  松田陽子(北摂)
平和への願いを込め毎年、退職者の会員から届いた“祈り鶴”が今年も沖縄・広島・長崎へと献鶴されました。今年も、保存か焼却か活用か、折鶴の扱いが問題になっています。来年2月をめどに広島市は最終案を決めるようです。広島市民球場の跡地に出来る建物に保存と言う案もあるとか、私は是非“祈り鶴”を残していただき博物館へ寄贈してほしいと考えます。みんなが心を込めて折った鶴、ヒロシマの心を受け継ぐ“祈り鶴”を入館者に持ち帰ってもらい平和への想いをつなげていって欲しいと願っております。
飢餓・貧困に苦しむ子供たち   中田かよ子(北摂)
終戦後疎開先から大阪へ帰る途中、見知らぬ方から。ふかしたサツマイモをもらった時のうれしかったこと。当時の配給はトーモロコシ・サツマイモの粉でお米は無かった。今、日本では、スーパー、デパート、どの店でも食べ物はあふれるばかりに並んでいます。その反面、世界では飢餓に苦しむ人達が、子供達が何百万人もいます。その事を思うとき、私達は物を大切にし、与えられていることに感謝の気持ちを忘れてはならないと思います。
(全文は戦争体験記に記載)
語り継ぐ  中瀬規洋子(河内)
 広島支部協松木会長さんの被曝体験を聞いた中で、子供達に平和学習をして伝えていくのはどこだろうかという話に、語り継ぐ重要性を感じました。広島では8月6日を登校日にして学習会をしているそうです。そして8月6日だけでなく他の日にも拡げていかないと・・・の言葉に絶対伝えていくのが私達の責務だと痛感しました。今では修学旅行等で少しは伝えられつつあるが、まだまだ全国展開には程遠い現状!語り継ぐ大切さを切に思います。
自分が被曝差別にあったら・・  谷口次作(北摂)
 現役時代を含めて広島行きは今回で3回目です。特に、原爆資料館はその都度見学していますが、印象的なのが熱線によって、人の身体の影が残っている写真です。また、広島県支部協松木会長自身の被爆体験談で、結婚等に関して多くの方々が差別に苦しめられた話も、はじめて知りました。もし自分が差別されたらどうかも自問自答です。66年前の8月、広島に投下された一発の原爆で約14万もの尊い命が奪われ、今なお後遺障害で苦しめている現状です。核兵器の廃絶を!
世界平和が訪れますように 藪内 翠(北摂)
 25年前に、孫が学校で原爆の話を聞いてきて家族で広島原爆記念資料館に出かけました。孫たちは展示物をじっとみつめながらも。私にいろいろと聞いてきましたが、私は、あまりの酷さに顔をそむけ、早く出てきました。それから20年以上たった復興した広島はビルが立ち並んでいて、ビックリしました。66年目の記念日を迎えて、これからは、ピカドンの無い、戦争の無い世界平和が訪れるよう願っています。
戦後日本のエネルギーを結集して  田村桂一(河内)
今や、日本は東日本の大震災で甚大な被害を蒙りましたが、戦後日本のエネルギーを結集すれば必ず立ち直れます。私は「平和の集い」に出席し、66年前の出来事を走馬灯のごとく思い出し、更に東日本大震災に思いを馳せ、日本人ならば必ず世界に範をなす民族として心を一つにして復興エネルギーの再生をすることが出来ると確信するとともに祈念する一人です。(全文戦争体験記記載)
戦争の記憶 福西輝男(泉州)
 昭和20年3月の大阪の大空襲は、当時6歳でしたが、少し記憶があります。防空壕に避難し、かぶせてある畳の隙間から見た窓は、真っ赤に染まっていた。上空には、B29艦載機が、次々と飛んできて大きな騒音を覚えている。小さな長屋に住んでいたが、前は敷石で、青い炎が見え、石が熱かった。手にお椀を持ち、行列に並んで雑炊を食べた。家は、南海本線住之江駅の側にあったので、戦死者の遺骨を持ち、先駆者が旗を揚げ、行列の人たちは、うつむきながらゆっくり歩く光景を何回も見ました。長屋は、全焼しました。母の実家に身を寄せました。母は、暗くなるまで働き、食事は、イモつる、麦飯で、何時も空腹でした。兄弟も多かったので、今でも食べるのは早い。衣服から教科書まで、兄のお古でした。あるとき番傘を壊して、強く母に怒られた。断片的に過去の出来事を、思い出しながら、投下から66年目の広島原爆慰霊祭に、連続6回目の参加をしました。戦争で亡くなられた多くの国民は、今の平和を得るための尊い犠牲者です。子供、孫、永久に維持していく事が、我々の責任と思います。同時に日本政府、マスコミ、国民一人一人が、世界に向けて、訴えていくことが求められる。
戦争は人災    林良次(泉州)
戦争は人間同士の損得の争いです。武器を多大に使い人と人、国と国、イデオロギーとイデオロギーの醜い争いです。戦争は話し合いで必ずやめる事が出来ます。この広い宇宙で生き物や人間がいる地球はかけがいのないものです。限りある地球を私たちは賢いはずの知恵で戦争を無くす事ができる。戦争と天災は人間にとって大きな違いがあります。戦争は人災です。人間の力で止めさせる事ができます。(全文は戦争体験記に掲載)
脱原発  橋本多美子(なにわ)
広島ピースフォーラムに参加」させていただきました。戦後66年過ぎてなお原爆によって苦しんでおられる人々がいる今日、アメリカから被爆した日本は被害国だったのに、地震による津波で福島の原発が破壊されました。平和利用の名のもとに電力を原発に頼った日本は、加害国となってしまいました。戦後、復興し経済を優先し過ぎ、安全を忘れてしまった私達。少し不便でも心豊かに暮らせます。私は脱原発を主張しています。
電灯の暗幕をとりはずし・・・真崎登(なにわ)
 昭和20年は中学2年生。学徒動員で大阪砲兵工蔽で働いていた。終戦の日の夜は、空襲もなく電灯の暗幕をとりはずし裸電球の眩しさを久しぶりに感じた。ここ広島でピースフォーラムに参加、平和記念資料館を見学、半径3キロメートル四方は完全消失、地獄化した被爆者の写真展に胸が痛む思いがした。戦争反対!原爆とごめんだ。こんな悲惨な思いは誰にもさせてはならない。平和公園内では、中学生・高校生が核兵器廃絶の署名活動を。私達は平和への思いをしっかり学び、次世代に伝えていかねばならない。
平和&絆  荒屋敷光子(河内)
 初めてのNTT基町ビルでの慰霊式典に参加。お世話くださったNTT労組退職者の会広島県支部協、松木忠生会長の被曝体験証言では、原爆は多くの命を奪ったばかりでなく、生き残った人に被爆症の苦しみを与え、差別と偏見に遭い、あの日の記憶を消した人達、ご自身も家庭を持たれるまでの苦労話、原爆の悲惨さ、核の怖ろしさを被爆者の生の声を子供たちに語り継ぐ平和活動をされている。情報不足の中、傷ついた人たちが生き抜いて広島を復興させた。福島原発で放射能の怖さを知り広島を再認識する。「封印ヒロシマ 解いた福島」(新聞より)
平和の願い 山田忠夫(泉州)
広島ピースフォーラムに参加して、平和の願い、戦いは、人と人との権力の争いで生まれたものであり、勝つための知恵と力の争いであり、大量殺人兵器の原子爆弾とか新兵器が生まれています。ある一部の人間により引き起こされる戦争が無ければ、何の罪もない赤ん坊や一般民間人などの犠牲者が、出る事はないでしょう。8月6日平和行動に参加した全員は、平和への誓いを新たにしたところです。最後に、毎年のことながら、退職者の会広島県支部協議会の皆様には、お世話していただいて大変感謝しております。
“戦争はもうイヤ” ~若人に継ぐ~ 外間和子(北摂)
 終戦当時5歳だった私は、戦中のことは記憶に乏しいが、敗戦を機に食糧難・物資不足が始まり、母は着物を米や芋に替え、食べられる物は何でも食べた。野草・蜂の子他・・次の年に小学校入学、教科書・文具・鞄・靴無し、ないないづくしの一年生。今まで戦争の負けの記憶を心の奥にしまい込んで、あえて語ってこなかったが、今回参加した「広島ピースフォーラム」でM氏が自らの被爆体験を熱く語られたのを聞いて心をうたれた。私も戦争体験者の最後の世代として機会ある毎に若人や子供達に語り継いでいかなければと心を新たにしている。戦争反対・すべての核廃絶を!風化させないために!
被爆者の思いを  矢野清子(なにわ)
 原爆投下で多くの人々の命を奪われた、被爆地広島は66回目の祈りの日を迎えました。被爆者からの直接体験談、平穏な日常生活が一瞬にして奪われた様子、生きていくことがどれほど大変な事か、言葉では語れない思い等、偏見を恐れて被爆した事を隠し続けたこと、ヒバクシャにしか、わからない痛み、見えない恐怖を生々しく語られ、目頭を熱くした。被爆者の体験や記憶を次世代に語り継ぐように、しっかり伝えていかなければならない。
反戦・反原発は正かった 加戸 幸男(河内)
 私は、全電通時代、反戦・反核・反基地・反原発の運動をしてきたが、それが今回の東日本大震災での福島第一原発事故等で原発の安全神話は崩れ去り、運動は正かった事が立証されたと考える。電力総連で働く仲間の労働者のことは少しおいて、戦争で広島・長崎に原爆が投下され、今でも20万人以上の人々が被爆して苦しんでいる。今回の事故ではいろんな食べ物にまでも被爆している。原発事故の修理のため働いている人達も被爆しながらも頑張っておられる姿に頭が下がります。反原発・脱原発は正しい。戦争は絶対にしてはいけない。
世界恒久平和  宮田 信子(北摂)
 原爆犠牲者慰霊碑NTT基町ビル碑文「ひろしまの追憶は世界の追憶であれ、ひろしまの嘆きは世界の嘆きであれ、天地のくだけたる日のくるしみを告ぐることなく、わが友はここに眠る」原爆十周年にあたり、日本電信電話職員の心からなる拠金によってこれを建つ。
慰霊碑に合掌し心をこめて、どうぞ安らかにと献水、核なき世界恒久平和をお誓いした。

# by ntttaikiji2 | 2011-09-13 14:36

空襲体験・戦後の暮らし

終戦後の思い出  中田かよ子(北摂)
 66年前の夏、広島・長崎に原子爆弾が投下され、多くの尊い命が奪われました。そして8月15日終戦を迎えました。その数十日後、母と私、妹二人は大阪へ帰るために、疎開先の小松駅から列車に乗り米原駅で乗り換える時に見知らぬ人から、蒸したさつまいもをもらった時の、嬉しかったこと。おいしかったことは忘れぬ想い出です。米原から」は貨物列車で窓もなく真っ暗な中で不安な気持ちで一杯でした。翌朝、梅田の貨物操作場に着いたときは辺り一面焼け野原になっていてびっくり!また、西九条駅では、駅の前に大きな穴が空いていて、一トン爆弾の落ちた穴と聞いてまたまたビックリ。幸い我が家は空襲をまぬがれていてほっとしましたが、その後、食料が無く、配給されるのはトーモロコシ粉、さつまいもの粉等で、お米はめったに無く、父母は苦労した事と思います。父が焼け跡を耕して、きゅうり、なすび、トマトなどを作りました。私達も手伝いにました。何時も食べることに精一杯の日々だったように思います。今、日本では、スーパー、デパート、どの店でも食べ物は」ふれるばかりに並んでいます。その反面、世界では飢餓に苦しむ人達が、子供達が何百万人もいます。その事を思うとき、私達は物を大切にし、与えられていることに感謝の気持ちを忘れてはならないと思います。

吹かなかった「神風」  谷口次作(北摂)
 私は京都府丹後地方の小さな山間の出身です。66年前の8月15日も大変暑い日でした。昼下がり外で遊んでいる時、今夜6時から天皇陛下の重大な放送があると聞きました。当時、村にラジオのある家は少なかったように思います。好奇心もあり近所の家に出かけてところ、すでに大人・子供達が数人集まっていました。中には入れず縁側で聞くことにしましsた。6時から放送が始まったのですが、ガァーガァーとラジオの雑音が》多くてよく聞き取れなかったように憶えています。すると「日本は戦争に負けたんだ」と大人達の声が聞こえました。国民学校4年生だった私自身戦争に負けたのかぐらいの感覚だったと思いますが学校で教わった「神風」という風は最後まで吹きませんでした。後で知った事ですが年輩の方ならよくご存じの「堪えがたきは堪え、忍びがたきは忍び」という言葉の入ったあの玉音放送でした。今も世界のあちこちで戦争が続いており多くの方達が亡くなっています。世界中から戦争がなくなる日が来るのを願うばかりです。

戦中・戦後のこと  藪内翠(北摂)
 6年生の卒業式の夜明けに、大阪の空襲があり、それからは両親の苦労がはじまりました。大阪の会社が丸焼けになり、父が一辺に元気を失くし病気がちになりました。8月15日の朝、父から、日本は負けたと聞き、私は「ウソや」と言いました。午後、放送を聞いて、日本が負けたことを知り、これで毎日逃げなくていいと思いました。近所一面は焼け野原でした。家の裏まで焼けました。その後が大変でした。私達家族6人で頑張りましたが、父が45歳で亡くなり母親は女手ひとつで子供4人を育ててきた苦労は大変だったと思います。戦争は酷いです。こんな事は二度と無いように、世界が平和でありますよう祈ります。

戦争と自然災害   林良次(泉州)
 今年の夏は、例年よりも少し違った平和記念日を迎える事になりました。それは3月11日の東北地震と津波、私達には天災を避けて通る事は出来ません。それよりも自然とできるだけ仲良くする事を考えなければなりません。いかに被害を少なくするか、自然との闘いです。自然を打ち負かす事は出来ません。人が生きている限り考えなければならない事です。さて戦争という事を考えて見ましょう。戦争は人間同士の損得の争いです。武器を多大に使い人と人、国と国、イデオロギーとイデオロギーの醜い争いです。戦争は話し合いで必ずやめる事が出来ます。この広い宇宙で生き物や人間がいる地球はかけがいのないものです。限りある地球を私たちは賢いはずの知恵で戦争を無くす事ができる。戦争と天災は人間にとって大きな違いがあります。戦争は人災です。人間の力で止めさせる事ができます。天災は自然のなせる業、予見予防は出来ても、失くす事は出来ない。この果てしない宇宙のたった一つの人間が住む、この地球を存在する限り人災としての馬鹿な戦争で失わないよう、しっかり守り続けて行きたいと思います。理想と言えは理想、ユートピアの世界かも知れない。人間は生きている限りこのユートピアを追い続ける事になるでしょう。内容の見えない放射線の苦しみから逃れるために、今、本当に努力することだと思う

復興エネルギーの底力に期待  田村桂一(河内) 1000字
 私は山陰地方の山村で終戦を迎えました。国民学校4年生の暑い夏でした。昭和17年4月に入学しましたが校庭は甘藷畑と化し、学校の裏山では炭焼きをしていました。上級生は原木を伐採し、下級生はこれらの原木を山の頂上から麓の炭焼き小屋小屋まで、あたかも蟻の行列のように一列に並んで順々に送る作業が毎日の日課ですが、原木は生木でこれを運ぶことは並大抵のことではなく小さな子供にとっては大変な作業で疲労困憊し勉強の出来る状況ではありませんでした。一方、家では兄姉等は報国隊(高等科卒業と同時に男女とも軍需工場に狩り出され砲弾弾薬の製造に従事させられていた)に行ってしまうので農業の担い手は病弱な母親一人(父親は小学1年時に病死)になっていたために小学生といえども一人の働き手として私と2歳下の弟が手伝わざるを得なかったので、家庭での勉強をする余地は全く有りませんでした。従って、学問の基礎を吸収する時期は全く勉強が出来ない日々の連続です。戦争のために大切な小学生時代は、家は農家でありながら収穫した米は、強制供出のため自分で作った物も」自由に食べられず代用食(大豆の搾りカス、甘藷、干した木の葉っぱ等が主食)に終始していたので食う物も十分に食べられず、勉強も出来ない、教材も無い、何もかもないないづくしの状況でした。しかし、このような状況下といえども神は見捨てませんでした。学問に対する吸収力だけは反発的な力となって着実に根付いていたのです。その力は逆の力となり、バネとなって学問に対する吸収力は着実に育ち、これらの秘めた粘り強さは戦後日本の復興に多大の底力のなり目を見張るものがありました。このことは、戦後、勤労学生として多くの人たちが夜間高校、夜間大学等に通い学問吸収に日夜務めたことが事実として物語っています。この吸収力こそ戦後復興の大きな波、大きなエネルギーの集積となって世界が驚愕する日本の再興になったのだと確信しています。今や、日本は東日本の大震災で甚大な被害を被りましたが、戦後日本のエネルギーを結集すれば必ず立ち直れます。私は「平和の集い」に出席し、66年前の出来事を走馬灯のごとく思い出し、更に東日本大震災に思いを馳せ、日本人ならば必ず世界に範をなす民族として心を一つにして復興エネルギーの再生をすることが出来ると確信するとともに祈念する一人です。
# by ntttaikiji2 | 2011-08-25 20:13

戦争体験記2~NTT労組退職者の会大阪支部協編~


◆平和で静かな沖縄を返せ! 尾崎八生(なにわ)石田禮子(北摂)
 情報労連の仲間が全国から330名、現地から100名、嘉手納町海浜公園に集結し「沖縄ピースすてーじ」の成功に向け「団結ガンバロー」を三唱した。そして嘉手納基地周回行動の行進がスタートした。台風の影響で吹き飛ばされそうになる帽子をしっかり頭に括り付け一歩一歩踏みしめながら行進した。
フェンスで仕切られた基地はまるで世界が違い緑豊かで広大な土地を占有し、時折り目に入る軍用機からの耳を覆いたくなる位の爆音が聞こえてくる。周辺住民は昼夜を問わず繰り返し聞こえる爆音に苦しめられ、その怒
がいかに大きなものであるか実感した。
全国の米軍基地の74%が沖縄に集中し、その中でも市街地のど真ん中にある普天間基地は世界一危険な基地である。    
 日米地位協定は締結から50年も経過し、
事件・事故・騒音等激増している現在に於いても一度も改定されたことがない。一日でも早く抜本改定されることを心から願う。           
 66年前の沖縄戦で20数万人の尊い命が犠牲となり、多くの住民が巻き込まれた。決してこの惨劇を風化させてはいけない。  
 沖縄の人々の苦悩を日本いや、全世界に届くような思いで「日本地位協定を見直しせよ!」「アメリカは基地を縮小せよ!」「平和で静かな沖縄を返せ!」とシュプレヒコールを力強く上げながら行進した。
 「沖縄ピースすてーじ」に参加して「観て、聴いて、歩いて」感じたことを、家族や知人に広げていこうと強く思った


◆激しい風雨の中を! 青木育夫(泉州)
 台風5号の影響で、激しい雨と横風が吹く中、参加者全員合羽を着て戦跡のひとつ「チビチリガマ(避難洞窟)へ向かう。足元と靴はびしょ濡れである。雨の中を歩く合羽姿の集団を見て、1943年、明治神宮外苑での「学徒出陣壮行会」でぬかるんだグランドを整列行進していたシーンがオーバラップして見えた。
 この雨中にバスから降り、戦跡に向かう参加者の心意気はどこから来るのだろうか?
 1日目の「連合・平和オキナワ集会」や沖縄タイムス論説委員の屋良氏による講演「沖縄における米軍基地について」の解りやすい解説。2日目の嘉手納基地・周回行動等に参加し「あまりにも広大な基地」「軍用機の爆音のひどさに衝撃を受けた」等「観て、聴いて、歩いて」沖縄県民の切実な基地問題の「現状」を知った。
そして、過去の沖縄、米軍上陸により市民を巻き込んだ地上戦の舞台となり、軍民合わせて約20万人が犠牲となった沖縄戦。この戦いの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っていると言われている。戦跡学習行動は、あらためて戦争の愚かさを学んだ。
 沖縄の「現状」と「過去」知り、平和の尊さ・大切さを願う一人一人の思いが、風雨の中の行動に表れていると感じた。来年も、『沖縄ピースすて~じ』に多くの仲間が参加し体験し、沖縄の思いを知ってほしいと強く感じた3日間でした。

◆戦争の愚かさ、悲惨さを再認識  馬場駿多(北摂)
戦跡・基地学習行動日当日は台風5号の影響を受け、バスから下りれば強風雨という状況であった。学習箇所はチビチリガマ、安保の丘、嘉数の高台、アブチラガマと退職者の会で、シムクガマ、平和記念資料館等を訪れました。ガマとは、沖縄の方言で洞窟やくぼみのことで、沖縄には多数の洞窟があり、住民は避難壕としていた。読谷村にあるチビチリガマでは米軍の投稿勧告を日本兵は拒否し、日本兵の指示のもと集団自決あり、シムクガマには日本兵はおらず、ハワイ移民帰りの人が米軍に「攻撃をしない」約束を取り、」避難住民全員(約1000人)が生き残った。アブチラガマは全長270mの壕で陸軍病院分室として利用され、1000人以上の負傷兵で地獄のようだった。米軍に包囲された時には重症兵は毒殺された。日本兵のいる壕では泣き止まぬ幼児は口を手で塞ぎ殺した等、戦争の愚かさ悲惨さを暗闇の壕の中で説明を聞き平和行動の重要性を再認識しました。この事実が教科書から削除されている。

◆アブチラガマでの証言(真っ暗闇の壕の中で聞いた悲惨な体験談です)
仰向けに寝ていると背の下にムズムズしたものを感じ、それらがやがて首筋、 お尻の下にも感じられる。手探りでつまんだら、それは大きな「うじ」で群をなしていた。
どこから来たものか、あたりを見まわした時、ふと隣の吉田君(東京)がいつの間にか死んでいた。 そしてすでに腐りはじめ、そこからはい出していることがわかる。死臭鼻をつき吐き気さえ感じて いたが、まさか一番元気だったこの人が、死んでいるとは意外だった。そういえば自分を殴らなく なっていた。水のとりこになっている間に「うじ」の住居になるなど、悲しくも哀れである。
悪臭と「うじ」に悩まされつつも白骨化していく友の傍から離れるだけの体力もなく、「今にこの姿 になるのか」と恐ろしい戦慄の時が続いた。それでも水を求める私は手近なところに水のあることを 思いついた。「小便を飲もう」私は一心に放尿に励んだ。しかしこの妙業も効き目がなかった。 小便になるような水分は体の中に残っていない。
ある日、向こう側の上部にある空気穴から黄燐弾が投入され、大音響と共にはねとばされた。 気を失ってしまった。気ずくと棚の上から落ちていた。他の者も幾人か吹き飛んだらしい。 しばらくして正気に戻り「ああ、まだ生きていたか」と辺りを見ると、ここは五米ばかり下の水たまりの 傍であった。爆風で飛ばされた時、奇跡的に地下水の流れへ運よくいったものとみえる。
一念が通じたのか、偶然なのか、私の切望した水が得られたことに喜びを感じる暇も惜しく、一気に飲み続けた。痛みも忘れとにかく腹一杯になるまで飲み続けたことは今でも覚えている。水腹であっても満腹感は私に 「生命力」を与えてくれたのか、眠りを誘い、起きてはまた飲みして少しずつ動くことが出来るようになった。

◆逓魂之塔に全国の千羽鶴が  菅野初美(北摂)
2日目は嘉手納基地周回行動から始まりました。若い現役の方に混じり平和と静かな沖縄を願いながらシュプレヒコール。午後からは沖縄県支部協の宮良氏の案内で読谷村を中心に戦跡の学習。アメリカ軍上陸の浜は、15kmもの真っ黒い船団が来たとは想像もできないような静かな海でした。 その後いよいよ逓魂の塔へ。平和祈念公園内にある摩文仁の丘には各都道府県・自治体・団体などの慰霊碑があります。逓魂の塔の碑文に「逓友426柱、太平洋戦争最大の激戦を展開した郷土沖縄の戦闘において、国土防衛の為に銃をとり逓信人としての義務と責任を遂行するためにその未を犠牲にした・・・」とあり心が震える思いでした。この犠牲を無にしてはいけないと、ここに私達全国の後輩から寄せられた千羽鶴が捧げられました。沖縄戦で散った人々の慰霊と世界中の平和を祈り手を合わせました。 広島、長崎とはまた違う沖縄の平和行動。基地と言う重大な問題を抱えている県民の方々の気持ちに沿って微力ではありますが平和を訴え行動して行きたいと思います。

◆基地はいらない   小野美枝子・厨子芳枝(河内)
 「願う」平和から「叶える」平和へ! 小野美枝子(河内) 厨子芳枝(河内)
 2011連合沖縄集会は、6月23日午後から1500人の働く仲間が結集した。
日本全国に117ヶ所米軍が自由に使用する専用施設の74.8%が琵琶湖の2倍の沖縄にあり、日米地位協定(日本に住んでいながら日本の法律の網からもれる)という条約の為、米兵による刑事裁判も”公務中”という理由づけで日本は裁くことができない。最近19歳の男性がバイクで走行中、米兵の車による死亡事故安価市感じたこと。しかし、米兵は基地への通勤途上ということで罪にならず・・・米軍基地があるが故の事件・事故が絶えないことに憤りを感じる。
”日米地位協定の抜本的見直しを”と声を大にして叫ぶ、又、昼夜を問わず深夜・未明にも繰り返される爆音は周辺住民の睡眠という最低限の基本的な人権すら奪っている。
 基地が無ければ一番いいのだ
沖縄に基地はいらない!
又、夕方から全国330名、沖縄から100名の情報労連の仲間と共に「ピースすてーじ」に参加し感じた事・体験したことを帰ったあとで「戦争の愚かさ悲惨さ」を広め此の運動を次代に繋いで欲しいとのあいさつがあり、続いて現地代表から戦後66年不発弾や遺骨がまだまだ残されている、不発弾撤去には約70年以上かかることなど沖縄の戦後はまだ続いていると現実・現状が訴えられ「ピースすてーじ」の成功へ団結ガンバロー!で閉会した。

◆「沖縄滞在96時間の雑言」!  中井秀禮(大阪支部協)
 小指の痛みは、「体」全体の痛みであり、沖縄県民の痛みは、「日本国民全体の痛みである」との認識にたち、祖国復帰闘争を展開。1975年5月15日、施政権を含め祖国復帰が実現しました、が依然として多くの課題が残されたままである。2010年時点も米軍專用施設面積の約74%が沖縄県に集中し、同島の約19%が基地として占有されています。この様な状況下で、度々引き起こされる米軍の、軍人・軍属による「事故」「事件」が頻繁に後を絶たず、県民を苦しめています。このことは、日米安保同盟に基づく地位協定を米国に都合よく運用解釈され処理されており、県民にとつては苦しみだけが残るという状況であります。たまらないとお思います。
 今後は日米間で地位協定の抜本改正・改革を日本政府ももう少し強気で事に当たるべきであると思います。
 基地問題に目を向けると、復帰時は確か政治的様相も加味・考慮もあり、「基地」は「本土並み?」がスローガンとして掲げられていたと記憶する。勿論、経済は、観光産業と公共事業を中心とした建設業の振興が中心であり、基地に頼らず安定した雇用の創出の実現であった思う。
 1968年1月31日~2月4日の間全電通沖縄派遣青年団の一員として全国124名の仲間と訪沖来、実に43年振りに、ノーパスポートで沖縄の(県)地を踏んだ。
 時の政権の思惑に翻弄され、着地点すら見えない現状の基地問題について、この目でしっかりと見ることであった。それは、「嘉手納」軍事基地周辺の地域・県民の生活エリアの様相である。43年前の周辺状況は、基地の周囲を固く鉄条網でガードされ、且つ広く威圧感があり、他を全く寄せ付けない陸の治外法権エリアであった思う。基地と同居と言っても何等不思議ではない地域に県民の日常生活があつた。当時は確か基地内には、当然のことながら、ベトナムへ発進するであろうジェット戦闘機が我が物顔で配備。それを動かす大量の燃料が地下燃料タンク(地中に)が配備されていた。問題は燃料タンク等から日常的に燃料漏れが起こっており(引火性の高い)県民の生活水である「井戸」へ流れ込み、所謂「燃える井戸」の存在である。それらのことを知っている県民も極めて少なくなっているとのこと。時間がそうさせたのかーなあーと思わざるを得ない。
6月23日、沖縄、広島、長崎、根室と続く連合“2011平和4行動”が沖縄でスタートした。折から沖縄「慰霊の日」であり、那覇市民会館で開催。全国から880人連合加盟組織組合員(情報労連NTT労組等加盟組織組合員、400人・大阪グループ連絡会15人)参加。日米地位協定をテーマにシンポジゥムと平和式典が行われ、改めて日米地位協定の問題点を鋭く指摘し、抜本改革を日本政府に強く求めるとともに、普天間基地の早期返還等を含む多くの課題の解決を目指して粘り強く平和運動を、各単産・地域で推進行くことが確認された。
情報労連の参加者は、南部戦跡巡る「ピースふいるどわーく」「米軍基地の縮小・整理と日米地位協定の抜本改定を求める行動」「嘉手納基地」の広大さを我が身をもって体験体しようと、「基地周回18キロメートルデモ」行進行動完歩

 現地行動を通じ、特に感じたことは 
昨今マスコミ等の報道は「沖縄基地」をめぐる問題は東日本大震災の復興に向けた日本政府の対応等・・・諸々の取り組みの狭間に隠れた状況の中で扱われているとの感がしないでもない。その扱われ方は、本土:沖縄県の間では、可なりの温度差が有るように思うのだが。冒頭で記した言葉、小指の痛みは、「体」全体の痛みであり、沖縄県民の痛みは、「日本国民全体の痛みである」との共通的・共感が持ち得ないものなのか?それとも、一つの国での、出来事とは思っていないのでは・・・の感がする。 


●逓魂之塔について・・沖縄県支部協・黒島会長
 1965年に建立「紺碧の潮騒につつまれるこの摩文仁丘上に逓友426柱その芳魂の永遠の臥床としてこの塔を建立する」とある。この537坪ある敷地の維持費の問題や、慰霊の日のあり様など、平和のモニュメントとして、より身近に感じ、どう後世に残していけるのかその議論が迫られているようです。(沖縄県支部協会報より抜粋。)
# by ntttaikiji2 | 2011-07-09 08:39
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